2つの住宅 in 高山。
先月に書いた内容の続きになりますが、福井で2つの博物館を見学した後は、岐阜県の高山市を経由して富山に帰りました。高山に寄ったのには理由があり、2つの住宅を見学したかったからです。日下部家と吉島家の隣り合う2つの住宅は、明治時代に飛騨の名工によって建てられた町屋建築で、共に明治以降の町屋建築としては初めての重要文化財に指定されています。


高山は山奥にあるにも拘らず、江戸時代には天領と呼ばれる幕府の直轄領でした。造船の際に必要な木材や、武器の鋳造の際に必要な木炭などの資源が豊富であり、鉱山では鉄や金まで採掘されていたことが、幕府には魅力的だったようです。日下部家はこの時代に幕府の御用商人として栄えた商家でした。日下部家住宅は、明治8年の大火で類焼した後に明治12年に完成したもので、現在は日下部民藝館として一般公開されています。棟梁の川尻治助は、飛騨大工の名門である谷口家の谷口延恭に師事しており、彫刻の名手でもありました。多様な格子と二段構えの軒が特徴的な正面から入り口を入ると、奥の蔵に続く通り土間とダイナミックな吹抜空間、それらを構成する柱、梁、束による立体格子が目に飛び込みます。上部の障子窓から入る淡い光が、弁柄に煤をまぜたという焦げ茶色に塗られた木部を浮かび上がらせ、7間半の継ぎ目のない赤松の梁は迫力があります。畳敷きの室を進み仏間に入ると、日下部家先祖代々の位牌が祀られている立派な仏壇があります。京都の職人による精巧な彫刻や細工が施された仏壇は、当時300両をかけて作られたそうです。2階には、日下部家に嫁いできた女性たちの嫁入り道具などが展示されており、当時の生活感を感じることができる展示でした。また、柳宗悦の民藝運動に共感した11代目の当主が民藝館として一般公開を始めたこともあり、敷地内の蔵には民具や古陶磁など手仕事による様々な道具を見ることもできました。




吉島家住宅は日下部家住宅の隣に建つ町屋建築で、明治9年に建築された後、明治38年の火災で半焼、明治40年に焼け残りを活かしつつ再建された住宅です。棟梁の西田伊三郎は、寺社建築を専らとした飛騨の匠、水間相模に師事し、江戸時代最後の名工と呼ばれた大工です。私がこの住宅の存在知ったのは、大阪の建築家・竹原義二さんの著作に掲載されていたことがきっかけです。ドジと呼ばれる土間空間と、オエと呼ばれる広間、その上部の立体格子の吹抜けの写真が非常に印象的で、機会があれば見てみたいと思っていました。建物内に入ると日下部家住宅同様、立体格子による吹き抜け空間が広がっているのですが、よく言われるように日下部住宅は男性的なのに対して、吉島住宅は女性的な印象です。部材の径が大きいとかそういう事ではないと思うのですが、木部の色も朱色が入っていて少し明るいことや、各室のスケールが日下部家よりも小さいこと、2階については床の高さに変化を与えることで空間が細かく分節されていることなどが、そのような印象を与えるのかもしれません。また、住宅内の様々な場所に、美術家・篠田桃紅の作品が展示されており、その繊細さと力強さが共存した作品群が、空間の印象を引き立てているようにも感じました。篠田家と吉島家は遠戚関係にあるそうです。


2つの住宅は長年にわたる維持保存活動のおかげで現存しており、飛騨高山の優れた大工文化を堪能できる貴重な場所です。しかしコロナ禍にあっては、外国からの観光客は殆どゼロとなり、修学旅行や国内旅行も激減。クラウドファンディングを活用して運営費を補うなどをされたようです。私が見学したのは平日でしたが、高山の街中には外国人を含めた観光客も多く賑わっており、活気も取り戻しつつあるのではないでしょうか。末永く歴史を繋ぐ文化財であり続けていただきたいものです。